いま再び注目される熊谷守一の魅力
熊谷守一は、1880年生まれ。早くから才能を認められながらも、絵を褒められようとも有名になろうとも思わず。絵で家族を養えるようになったのは50歳を過ぎたころ。42歳のとき、秀子(24歳)と結婚。1932年、豊島区に自宅を新築し、1977年亡くなるまでこの家で暮らした。いま熊谷守一が注目されるのは、その常識にとらわれない生き方、清貧にして豊かな人生が現代人を魅了するからだろう。この並外れた個性を持つ夫を深く理解して人生をともに歩んだ妻との夫婦のありかたもまた、私たちを魅了してやまない。芯の通った生き方とチャーミングな人柄、枯れることのない好奇心とともに生涯現役として過ごしたしなやかな強靭さ、草木が茂った生命力あふれる庭に、豊かな人生とはどんなものであるかを教えられる。本作は、熊谷守一という人と芸術のエッセンスを見事に凝縮させた映画なのだ。
190点を超える作品で振り返る、四国で久しぶりの大回顧展が開催されます。

「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」

愛媛県美術館にて
4月14日(土)より6月17日(日)まで開催。


熊谷守一
岐阜県恵那(えな)郡付知(つけち)村に生まれる。実業家・政治家の父を持ち家は裕福だった。1897(明治30)年、岐阜県尋常中学3年で上京、跡を継がせたい父の願いとは裏腹に画家を 志す。1900(明治33)年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科撰科に入学し、黒田清輝、藤島武二らの指導を受ける。同期に青木繁、和田三造らがいる。1904(明治37)年に同校を 首席で卒業。父の急死により生活が困窮、絵では食べて行けず樺太漁場調査隊の写生係や、故郷に戻りヒヨウ(渓流で木材を運ぶ運搬業)などのアルバイトも経験する。二科会で発表を 続け、二科技塾の講師も務める。
1922(大正11)年、42歳の時、24歳の大江秀子と結婚。戦争を挟んで5人のうち3人の子供の最期を看取る。戦後は明るい色彩と単純化されたかたちを特徴とする「モリカズ様式」とも呼ば れる画風を確立。晩年は身近な動物や植物、身の回りのものを深い洞察力をもって描き独自の画業を切り開いた。97歳で亡くなる数ヶ月前まで書や墨絵を描いた。対象の本質を捉えた絵と、 力みのない自然な書は、今なお多くのファンに愛され続けている。
45年暮らした住まいの跡地には熊谷守一美術館(東京都豊島区)が建ち(1985年開館)、故郷の付知町(岐阜県中津川市)には熊谷守一つけち記念館(2015年開館)がある。